昭和43年09月20日 朝の御理解
御理解 第93節
「氏子は神の守りをしている者を神と心得て参詣してくる。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日は御留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」
最後のところに御座いますね。人間はみな平等だとみな同じように、しかも神の氏子じゃによって。平等というだけではない神の氏子である、よって見下したり汚がったりしてはならぬぞ。というのは人間尊重である。人間を尊重しなければならない。様々な難儀がありますけれども、一番難しいのは人間関係と言われております。人間関係が一番難しい。その難しい人間関係が結局は神の氏子としての見方、頂き方が出来るようになると段々解決のおかげになってくるのではないかと思います。
あんな奴とか、あんな人とか言う所に関係がいわば、もつれた関係にらみ合いの関係と言う事になってくるのではないでしょうか。私は今朝ここの所を聞かせてもろうて神様はここの所を何を分かれ、何を教えて下さろうとしておられるのだろうかと思いました。そして信心の心得信心をさして頂くものの心得の所を頂きましたら、信心の心得のところを肉体でご覧なさいませ、19ページですか、人という字がずうっとつづいとる所がありますね。
「信心する人は何事にも真心になれよ」
「真の道を行く人は肉眼をおいて心眼を開けよ」
「神の思いを人知らず、親の心子知らず」
「神信心なき人は親に孝のなきも人の道も知らぬも同じ事じゃ」
人と言うのがずうっと続いておりますね。1,2,3,4、この四か条、続いておりますし。人間そこでここから、分からしてもろう事は、人の道と言う事です。人間の道と言う事。人間だから、人間の道を行なっておるのですけれども、人間でありながら、人間の道を歩かないところに、人間関係がむつかしゅうなってくる。そこでそんなら、人間の道を人の道と言うのは、第一神信心がなからなければ、本当の人の道は分からないと言う事が分ります。
神信心なき人は、親に孝のなきも人の道も知らぬも同じこと、とこう仰っておられます。だから厳密にいうとですね。いわばこのいうなら、金光様の御信心を頂かねば、本当に人の道は分らんと言う事になる。第一神の恵みが分からない。信心しなければ神の恵みが分らない。そこで信心する人は何事にも真心になれよ。信心する人は何事にも真心になれよとこういう。そこから真の道を行く人は肉眼をおいて、心眼を開けよと仰る様に肉眼をおいて心眼が段々開けてくるようになる。
ここんところの人間が心眼を開くと言う事は、どう言う事かと言うと、ここでは心眼とは心の眼と書いてありますけれども、これは神の眼いわば、信心は我が心が神に向こうのを信心と言うのじゃと仰る様にお道の信心は私共が神様を目指すこと。ですから心の眼ではなくて、いわゆる神様としての見方、段々出けて来る様になる。そこで信心をさせて頂く人間の道、人の道が分ってくる。そこからいわゆる神の道がわかってくる。そういう順序になるようですね。神の道が分かって来る様に。
本当はならないと、私は人間は神の氏子としての見方、頂方が出来ないと思う。そして御理解今日の最後の所に、「人間はみな、同じ様に神の氏子じゃによって見下したり、汚かったりしては、ならぬぞ」と。ですから如何に人間が神様になるなんて言う事は、変なふうに聞こえますけれども、もともと人間は神の氏子じゃと言う事です。もともと神様だと言うことなんです。
それからいつのまにか人間の世界だと言うかね、その汚れ悪神と言うか、悪い汚い中に染まる、いわゆる我情我欲が出けてきて人間の姿をしているけれども、心はいわゆる人面獣心と言うですかね、人の面をしておるけれども、心は獣の様だ獣心強いもの勝ちね。自分さえよかれば、と言うような心は私は獣心と同じだとこう思います。ですから言わば牙を向きださんばかりにして争い会うのです。一介の肉の固まりを中にしてね、獣がその肉の塊をいうなら、奪い合っているようなもんです。
そういう世界にやはり人間の幸せ、人間の平和と言う事はありえない。ですからここはどうでもそういう人間がいうならば、ほとんどの様な中にあって信心をさせて頂く人、特に金光様の御信心をさせて頂く人がです。まずひとつ肉眼をおいて心眼を開き、いわゆる神の眼、神の心を以て氏子を大事にして行く。人間を大事にして人間を尊重して行くと言う様な生き方の手本をですね。示していかなければならない。やはり責任とでも申しましょうかね。金光様の御信心をさせて頂くものはそういうのを感じます。
そこで私達はここに思わなければならないんです。けれども人間は全てそうです。けれどもまず私共の身近か手近なんからです。この尊重し合うと言う事が大事にし合うというか、ものがなされていかねばならん。ところが本当に自分の手本足下のところが出来てないのに驚きます。昨日おとといでしたか朝の御祈念に秋永先生のお導きで甘木の御信者さんで大変有名な方がおられます。福岡の田原さん、高橋さんところのご近所に住んでおられる。御本部に月2回ずつお参りされると言う話であった。
こりゃ私共は何十年前、その話を聞いておった。ところが実際先日お会いして聞かせて頂いたが今御本部に3回ずつお参りされるそうですね。そうしなければおられない。お礼参りをしなければおられない。お礼参りをするおかげを頂く。又お礼参りをせずにおられん。それが信条らしいですね。甘木の教会にお日まいり、秋永先生の案内でここをこう見られたんでしょう。
こお広前をこっからこう付属建物を、そしてその前見事に出けておるいわば噂以上だと、実は私共信心友達2~3人でいっぺん信者でないふうをして、そしていっぺん見に行って見ようじゃないか。あちらの先生はなかなか徳が高い。もう神様の様な見通しげなそういうもっぱら評判が聞いておられる。合楽をそういうふうに見ておられる。そしてお参りした人たちがいうなら、見通しの事など言われてから、はあ成程というて帰る。けれども、この眼で自分で確かめねば出けない。
と言うのでその話し合っておりました。まあこれは内明の話でところがなにかしらんけれど、その矢先に止まれというですかね。そのように信心が熱心な人ですから、免角いっぺんお参りしたいと言うのでどういう関係からだったでしょうか。秋永先生に連れて参ってくれと言うことになり、まあお参りして見えられたわけなんです。そしてまあいうならば、評判以上だったと言うわけだったんですね。もう大変御自身も感激され感動で本当にそれこそ誉めてたたえらえて帰られました。
ところがです私は知りませんでした。けれどもそれから電話が、田原先生からかかって来て、若先生が出来ました。丁度30分間今まで30分お詫びをされたと言う事です。今日は合楽にお引き寄せ頂きました。本当にはしたないお参りでした。本当に相済まんことでしたと、どう言う事かと言うと、お参りさせて頂いてまあ、いうならまあその朝の御祈念がお広前一杯あったとか、まあ見てまわったら、見事に御建築が出来ておったとか。私はそう言う所ばっかりを見てきたように思います。
もう帰って本当に恥ずかしい思いであったと。私共は親先生から、こう言うふうに教えられております。それを忘れてしもうておる。初代の安武先生の言うならば、教え子である。そういう偉い先生の教えを頂いておられる、その安武先生が田原さんに教えておられたことは例えばね、花見に行って桜の花がいっぱい咲いておる。そういうときにはね、花を誉めず、根を誉めよと言うておられた。
花を誉めずに根を誉めよと教えられておったにも拘らず、私は合楽にお引き寄せ頂いて唯見事に咲いておる花の所だけを見て来たように思いますと。どうぞ親先生にお取り次ぎ頂いて、そのことのお詫びをして下さいという、お詫びの電話がもう30分間繰り返し繰り返し、お詫びされたと言う事です。私くしもそれと同じような意味の甘木の先生の事についてお話を聞いたことがあります。あるとき久留米の初代の石橋先生のご案内で宮の陣の将軍梅、梅見においでられたことがあった。
その時の話を当時あそこに親愛という。新聞が出ておったその新聞に確かに書いてあったのを私は読んだと記憶します。丁度梅の盛りにお参りさせて頂いたら、三々五々梅見の客があって歌を作る人は短冊に歌を書く。俳句でもやる人は俳句を書いてその梅の枝にさげてある。どの歌を見みてもどの句を見ましても梅の花の素晴らしい事ばかりを讃えてある。時に甘木の先生は信心がなからなきゃこう言う事の結果になるんだ。
相済まんことだと天地の神様の御恩徳があっての梅の花、梅の花の根があって初めて梅の花、例えば年一回の梅の花の咲くためには、どれだけの永々としてそこんところの働きが、根によってなされたかと言う事を気づかずに、唯花が咲き、花が咲いた事だけをみんなが讃えておるが、天地の親神様のお嘆きと言えば、こう言う事ではなかろうか。と思うて自分はその根をたたえる歌を作ったと、言う話を読んだことがある。私はですね。いわゆる真の信心と又は自分の心が神に向こうての神眼という。
神の眼と言う。心の眼という。そういうものが開けてくるとです。形ではなくてその根を見ることが出来るようになるのでです。その根の働きを感じとることが出来るようになる。そこで花が咲いてなくても、根の働きの対するところの見方が出来るようになるところに人の道があるように思います。人の道とはそう言う事、そう言う所が分かる。それは、人の道であって、同時に神の道でもあるのだ。昨日月並祭の夜の高橋さんが風呂敷包みを持ってみえられました。
これは田原さんからおことずけしてくれと言う事でございましたからちゅのである、開いた見てから、私は改めて改めて有難いと思うた。いわゆる本当に人間尊重、人を大事になければそしてです。合楽にあのような御ひれや金光大神の御ひれが輝くようになった。やあ、あっちの先生は素晴らしか、あちらの先生は偉いと言う様に言うたり思うたりして帰って来たがです。それは丁度桜の花を誉めて来た様なものであった。
それには根があるはずだ。あの時聞かして頂いたらまだ御両親が御健在であると言う事を帰って思い出した。私はまずあちらの先生を誉める前にあちらの御両親を誉めでなければならないとことを電話で言われた。どうぞその思いを高橋さんに托された。その託けには御尊父様、御尊母様と書いてあった。尊いお父様尊いお母様への贈り物であったわけです。私はそれを頂いてから改めて私自身です。人を尊重する人を軽う見るな。見下したり、汚がったりしてはならん。
ならんとはっきり仰っておられるのに、自分自身の足下手元、いうなら自分の家内とか、自分の両親とか、自分の子供とかと言う様な私は一番手元のところにあるそこすらが尊重できてなかったと言う事をですね。改めて気づかせて頂いた。五本の指をこうやって開いて見るとやはりこの親指が一番見苦しい。背はずんぐりしとるし、他の指はスラーとしてスタイルがいい。けれども親はずんぐりしておる。けれども親がなからなければ、もの一つ掴むことが出来ない。その親を軽視する。
その親を軽う見る。あぁもう「年よりがねぇごと言い寄るの」と言った様な言い方なんです。思い方なんです。「もう年よりはもう引っ込んでおきなさい。」とそう言う事で私はおかげを受けられるだろうかと。改めて気づかせて頂く。人間はみな同じように神の氏子じゃによってと人間中でもいわゆる自分の身近なところ、手近なところになる人間、それは親であり子であり、家内であり主人である。それを神の氏子としての見方が出来るためにはこちらの心がです。神に向こうておらなければ出けん。
そうしてもういっぺん分からなければいけん事。信心がないのは人の道も知らないのも同じことと仰るから、結局信心がなからなければ、人の道がわからん。私たちが人の道と思うておる人の道は本当ではない。その人の道が分からしてもらう。そこから神の道が分かるようになる。神の道が分かるようになって初めて気づくところ、気づかしてもらい、見る目が違ってくる。そういう私はお道の信心のいわば、有難いところとね。人の道を説いて下さる。そしてそれを神の道までも繋いで下さる。
そういう生き方の中にです。私は人間関係のスムーズさというか、いうならば真の平和と言うか、人間関係の難しさでなくていわば、人間関係の有難さというか。人と言う字は持ちつ持たれつで出来ておる。お互いが願い合い頼み合い、助け合いによってできておる。これが人と言う字なのだ。お互いがつんばりおうておる。それで初めて人としての道が全うできてるのである。そこに私は人間関係のいわば楽しさと言うか、人間世界の楽しさと言うか、そこから開かれてくるというふうに思うのです。
そこでなら信心の心得の人と言う字が続いておりますところをもういっぺん一つ頂いてご覧なさいませ。「信心する人は何事にも真心になれよ」「真の道を行く人は肉眼を置いて心眼を開けよ。」「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず」「神信心のなき人は親に孝なきも人の道も知らぬもおなじことじゃ」とこう続けてこう御教えくださってあります。そういう内容をもって私共は人間はみな同じ様に神の氏子としての頂き方、そこには見下したり、汚がったりしないですむ。尊重して行けれる。
それはどんなに見苦しゅうても汚がったりすることはいらん。どんなに背が低くてもそれを見下したりすることはいらない。私は金光様の御信心させて頂くとそういうところがですね。段々身についてくるところからね、おかげの頂けてくる。それが例えば、人間尊重と言えば、出光興産の出光三郎さん。なんか人間尊重と言う本をかいておられますね。如何にあの人が他ごとですけれども田原さんと申しましたね。この方は出光さんのいとこにあたる方です。
これは出光さんの話をしておられましたが、小さい子供の時から偉かったらしいですね。随分ですから親が三郎さんを見てから、しっかりがんばらなければ、三郎さんに負けてはると親が言いよった。ある事情でもうすっからかんになられて、あの門司ですかあちらに移転していかれた、もう裏長屋と言うけれども、裏長屋と言うより貧民小屋の様な家だったそうです。一番初めに移られたところは。それからいわばあの天下の出光が生まれた。しかも天下の出光は、どう言う事をモットーとしたか。
いわゆる人間尊重であった。私はあの本の内容は見たことはなけれども、新聞を見ると何時もその見出しがついておった人間尊重とどういう平社員であろうが、どういうしもべであろうが、人を大事にしてこられたと言うような意味のことが書いてあるのではないでしょうか。そこにいわば天下の出光が誕生した訳ですよね。やはり心がけが違う。信心させて頂いておって人を見下したり、人を汚がったり、いやそれがそうであってはならない。たとえどうであっても親と名がつきゃう親なんだ。
それでその親すらも私共は軽視しておる事はなかろうか。これでは金光大神の教えて下さる道いわゆる信心の道、金光大神の言われる人の道、私達が目指さしてもろう所の神の道にもとることまあ、その通りの事でございますから、これではおかげが受けられないことが分かります。一つの本気で私共がですね。人間尊重まして自分の身近な人達の上にも一辺、それこそ私じゃあないけれども、御尊父様、御尊母様と書いて贈り物を頂いて初めてです。私自身が気がつくようにですね。本当に気づかして頂いたら、そこから、私は信心がなされていかねばならんように思います。
どうぞ。